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ハリー・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その2~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年07月23日 木曜日

 

ハリー・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その1~

和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オヘア姓(長男:エディー、次男:ハリー、三男:ドナルド、四男:レオナルド、長女:フアニタ、次女:アダメ、三女:エディス)2.ワイト姓(長男:ハラルド、次男:ロバート、長女:ロレイン、次女:ルシール、三女:ルース、四女:ノーマ、五女:メルビン)、3.メレディオス姓(長男:リチャード)、4.ピーター姓5.メドック姓など現在では100人以上の子孫を残しています。


by Michael O’Hare (マイケル・オヘア) は和田重次郎の1人娘、ヘレン・和田・シルベイラの三男(ドナルド)の息子です。ハリーおじさんはヘレンの次男にあたります。


ハリーロサンジェルスからサンノゼへ引っ越す

私(マイケル・オヘア)の父(ドナルド)は、1960年代初めに働いていた会社で、時々ロサンゼルス地域に出張しました。父はパイロットの免許を持っており、会社の飛行機をロサンゼルスまで運転していました。そのたびに父はいつもハリーおじさんを訪ね、私たち(私と兄と妹たち)は、ハリーおじさんを訪問した話を父から聞くのを楽しんでいました。

彼ら(ハリーおじさん一家)がサンノゼに住んでいた時、彼らは大きな古い家を持っていました。そこにエレベーターがあったことを覚えていますが、私たち子供はよくそれに乗り、登ったり降りたりしていました。私の記憶が正しいか自信がなかったので、いとこのロン(ハリーの四男)に聞いてみましたが、彼は、それは給仕用エレベーターだったかもしれないと言っています。恐らく彼が正しいです。いずれにしても、私たちはそれに乗るのをとても楽しんでいました。

家の前には、修理が必要な大きなスイミングプールがありました。父(ドナルド)は、ハリーおじさんと多分リチャードおじさんも一緒に、プールの修理に取り組みました。私は水のないプールの中を歩き回り、一番深いところまで行きました。私は水なしで一番深いところに行くのがとてもかっこいいと思いました。プールの端がとても高く感じました。

その後その家は取り壊され、今は6車線の高速道路になっています。

発明家のハリー・オヘア

ハリーおじさんは発明家でした。たくさんの製品を作りました。一番有名なのはトイレ用洗剤のTy-D-Bolです。1958年に発明し、1960に会社に売りました。

Ty-D-Bol

1968年から1984年までの最も有名なテレビCMの1つに、Ty-D-Bolがありました。ヨットのユニホームを着てトイレタンクの中でボートを漕ぐ男性が出てきます。その男はTy-D-Bolマンと呼ばれ、アメリカのアイコンになりました。現在でも人々はTy-D-Bolマンを覚えていて、芸人の一人芝居に時々出てきます。

ハリーおじさんは他の種類の洗剤や、プールの塩素注入機、浄水システムも発明しました。

ハリーおじさんは浄水システムを1980年代に作っていました。その会社はHOHウォーター・テクノロジーと言います。おじさんは当時、カリフォルニアのサウザンドオークスに住んでいました。ロサンゼルスから車で1時間ほど北にある街です。私の両親もそこに数か月住んでいたので、父はハリーおじさんが浄水器を作るのを手伝うことができました。

浄水器の権利は色々な会社に数回売られ、ロン(ハリーの四男)は昨年退職するまで、従業員たちに使用方法の技術を教えました。

父は私たちに、1940年代終わりと1950年代初めに、ハリーおじさんが反重力ボールか機械を発明した話をいつも教えてくれました。アメリカ軍はそれを学習し、彼から取り上げました。

人気者のハリー

ハリーおじさんは一緒にいて楽しい人でした。おじさんはいつも私たちを笑わせてくれました。

おじさんがサウザンドオークスに住んでいた時、私にそこに引っ越して来いと言い続けていました。おじさんは自分の人生をイエス・キリストに捧げてキリスト教徒になったのだと言い、私がおじさんに聖書を教えることを望んでいました。私はついに1985年にそこに引っ越し、2年間そこにいました。*語り手のマイケルは教会の牧師です。

1985年ハリーと家族との再会にて ハリーの背後に娘のシンシア(顔が一部見える)

私がほかの親戚を訪ねる時はいつでも、ハリーおじさんが話題に上がり、おじさんの思い出を共有しました。

1985年家族との再会にて ハリーと子供たちの一部
1985年家族との再会にて ハリーの息子ティモシー

1985年家族との再会にて ハリーの娘シンシアとその夫ジョゼフ

 


和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの3男ドナルドの息子

和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの三男ドナルドの息子

ハリー・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その1~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年07月18日 土曜日

和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オヘア姓(長男:エディー、次男:ハリー、三男:ドナルド、四男:レオナルド、長女:フアニタ、次女:アダメ、三女:エディス)2.ワイト姓(長男:ハラルド、次男:ロバート、長女:ロレイン、次女:ルシール、三女:ルース、四女:ノーマ、五女:メルビン)、3.メレディオス姓(長男:リチャード)、4.ピーター姓5.メドック姓など現在では100人以上の子孫を残しています。


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(by Michael O’Hare/ 語り手:三男ドナルドの息子、マイケル・オヘア)

次男ハリー・ヘアの思い出

ハリーおじさんは、ハリー・オヘアとヘレン・シルベイラ和田の第二子(次男)です。彼の名前は父親にちなんで付けられました。
1920年5月4日、アイオワ州ウォータールーで生まれました。今年2020年5月4日は100歳の誕生日でした。
私の父(ドナルド・オヘア)とは年の差が1年しかなかったため、幼少期から親しくしていました。

ロン(左) 、ハリー(中央)、フランク(右)

ハリーはエルヴィラ・マリー・ファルコーネと結婚しました。彼女はプラム通りの家で育ち、カリフォルニア州サンノゼの祖母ヘレンの家の隣の家か、数軒下の家(どちらかは覚えていません)で育ちました。

プラム通りにあるヘレン・和田・シルベイラの家

ハリーとエルヴィラには二人の息子がいました。

  1. ハリー・マイケル3世  (私たちは彼をブッチと呼んでいました。残念ながら1990年に亡くなりました)
  2. デニス・マービン                         

子供の頃、私の兄弟と私は、エルビラをミドルネームであるマリーと呼んでいました。彼女は素晴らしく、非常に親切で素敵な女性でした。後年、彼女は文房具店で働いていました。兄と妹と私が母と一緒に町にいた時は、いつも彼女に会うために店に立ち寄っていました。私が大きくなってからも彼女に会いに立ち寄ったものでした。文房具が必要なときは、いつも文房具店に買いに行き、母に会いに行っていました。ハリーとマリーは別れました。

ハリー2度目の結婚

ハリーはドリス・メイ・トルースデルと出会い7人の子供をもうけました。

  1. ロナルド・ジョセフ
  2. フランク・アラン
  3. ロバート・フランシス 私たちは彼をボブやボビーと呼んでいました
  4. ロジャー・トーマス:2002年に逝去
  5. ティモシー・ジェームズ(シンシアと双子)
  6. シンシア・リー(ティモシーと双子。2017年に逝去)
  7. ダニエル・ジョン
和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラの次男ハリーとその家族
ドリスと長男ロン、ハリーと次男フランク

ドリスおばさんは素晴らしい女性でした。とても親切で思いやりがありました 。私は彼女の笑顔と笑い声を覚えています。悲しいことに彼女は1972年に交通事故で亡くなりました。そのニュースを聞いたとき、私たちは皆大きなショックを受けました。

ハリー一家
ハリー・オヘア一家
左からドリス、シンディー、ティモシー、ロジャー、ロバート、フランク、ロン
(末っ子のダニエルはまだ生まれていない)

ロサンジェルスへの引っ越し

私たちは若い頃、いとこ同士で遊びました。ハリーおじさんの家族はロサンゼルスに引っ越してしまい、私たちは滅多に会うことはありませんでした。1970年に彼らがロサンゼルスのアナハイムに住んでいた時には、時たまサンタクララに来て私たちを訪ねてきてくれましたし、私の家族も彼らのところに遊びに行きました。
彼らはディズニーランドの近くに住んでいました。彼らにはディズニーランドで働いている友人がいて、乗り物のチケットをたくさん買ってくれたので、私たちは何も買う必要がありませんでした。それはそれで楽しかったですね。

ダニエル(左)、ドナルド・オヘアの娘ジュディー=マイケルの姉(中央)、ハリーの息子ティモシー(右)

彼らが住んでいた家にはプールがありました。私たちがいた時は夏だったので、暑かったです。年上のいとこたちは、家の屋根からプールに飛び込みました。私はそれを見て、どんなに楽しいだろうと思いました。私は高所恐怖症だったので、それをしたことはありませんでした。

その旅行の後、私たちは数年間彼らに会うことはありませんでした。ここ数年で何人かのいとこたちと再会し、彼らと知り合うことを楽しんでいます。

左から、ダニエル、ティモシー、シンシア、ロジャー、ロン

ー続くー


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和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの3男ドナルドの息子
重次郎の子孫マイケル・オヘア

和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの3男ドナルドの息子

日本から受け継いだもの エドワード・フランシス・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その2~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年03月10日 火曜日

和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オーヘア姓(長男:エディー、次男:ハリー、三男:ドナルド、四男:レオナルド、長女:ヘレン、次女:アダメ、三女:エディス)2.ワイト姓(長男:ハラルド、次男:ロバート、長女:ロレイン、次女:ルシール、三女:メルビン)、3.メレディオス姓(長男:リチャード)、4.ピーター姓5.メドック姓など現在では100人以上の子孫を残しています。


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アラゴン夫妻(フィデル、リンダ)。リンダはエディーの長子

第三子を妊娠したリンダのため、サプライズパーティーが計画されていました。しかし、サプライズのためにレストランに集まった人たちは、逆に驚かされる結果となりました。リンダは産気づき、レストランに現れることはなかったのです。

エディー 厨房にて

エディー(Eddie)おじさんは、サンノゼ(San Jose)のストーリー・ロード(Story Road)にあるトロピカーナ・ショッピングセンター(Tropicana Shopping Center)の食べ放題レストランで働いていました。家族でよく食べに行ったものです。おじさんはいつも厨房から私たちの席に来て、話をしました。私たちは食べ終わると、厨房に入り、おじさんに挨拶してから帰っていました。おじさんが料理長であり、厨房に入って挨拶するという、他のお客さんができないことをしていたことは、子供だった私にとって、特別で大切なものに感じられていました。

ディーと家族

歌うのが好きだったおじさんは、カントリーミュージックがお気に入りでした。おじさんは熱心な民主党員で、近所に政治パンフレットを配らせるため、リンダなど子供たちを民主党員にしました。非常に社交的な性格で、多くの友人・知人がいたエディーおじさんは、1969年12月7日に帰らぬ人となりました。

ヘレンとその家族が眠る墓地 Santa-Clara-Catholic カリフォルニア

父は訃報を聞いたあと、裏庭をずっと歩き回り、泣いていました。私も裏庭にいて、父のことを見つめていました。その姿は一生忘れられません。エディおじさんは母親のヘレンと同じ墓地、すぐ近くに埋葬されました。2016年現在、エディーおじさんの子孫は36人になっています。


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マイケル・オヘア(Michael O’Hare)

和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの3男ドナルドの息子

重次郎の子孫マイケル・オヘア

日本から受け継いだもの エドワード・フランシス・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その1~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年03月05日 木曜日

和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オーヘア姓2.ワイト姓3.メレディオス姓、4.ピーター姓5.メドック姓 現在では100人以上の子孫を残しています。



エディと両親(へレン和田とオヘア), Waterloo, Iowa,1918

エドワード(Edward)はハリー・マイケル=オヘア(Harry Michael O’Hare)、ヘレン・シルビア=ワダ(Helen Silveira Wada)夫妻にとって初めての子でした。 1918年2月2日にカリフォルニア州サンフランシスコ(San Francisco, California)で生まれた彼は、存命であれば今年102歳を迎えます。

エディー

エドワードが生まれてすぐ、一家はアイオワ州ウォータールー(Waterloo, Iowa)のアダムズ・ストリート(Adams Street)に引っ越しました。

祖父ハリー・マイケル・オヘアとその長男エディー アイオワ州ウォータールー(Waterloo, Iowa)のアダムズ・ストリート(Adams Street)

父は鉄道員として働いていました。中西部出身の父にとって、引っ越しは故郷への帰還でもありました。 1928年ごろ両親は離婚しました。7人の子を連れて、祖母は育ったカリフォルニア州サリナス(Salinas)の農場に戻った一方で、父はウォータールーに留まりました。のちに父はカリフォルニア州に移り、ヘレンや子供たちと連絡を取り続けました。

Christmas party at Eddie O'Hare house
1950年代クリスマスパーティ
Uncle-Eddie-and-Aunt-Delores

エドワードは成人し、ドロレス・アキスタペース(Dolores Acquistapace)と結婚しました。ドロレスは優しく、愛らしく、そして素晴らしい笑顔の持ち主でした。夫妻は、リンダ(Linda)、エドワード・ジュニア(Edward Jr.)、パトリック(Patrick)、モーリーン(Maureen)の4人の子供に恵まれました。残念ながら、パトリックはがんのため昨年(2018)この世を去りました。

サンノゼのエンパイアストリートにあった家

一家はサンノゼ(San Jose)のエンパイア・ストリート(Empire Street)に住んでいました。サンノゼの家を訪れた時の素晴らしい記憶が思い出されます。バンガロースタイルの家で、大きなベランダに続く階段もありました。

 

 

エディー 厨房にて

エディー(Eddie)おじさん(私たちはこう呼んでいました)は陸軍で調理人として働いたのち、シェフとなりました。サンノゼのセンター・ロード(Senter Road)にあったデル・モニコ・レストラン(Del Monico’s Restaurant)でおじさんが働いていた時の思い出を、おじさんの娘のリンダと語り合ったものです。


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マイケル・オヘア(Michael O’Hare)

日本から受け継いだもの 祖母ヘレンの思い出=和田重次郎の子孫たち ~その2~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年02月25日 火曜日
Helen’s home

私は1953年に生まれ、12歳の時に祖母が亡くなりました。彼女はカリフォルニア州サンノゼ(San Jose, California)のプラム・ストリート(Plum Street)に住んでいました。サンタ・クララ(Santa Clara)の我が家からは18kmで、よく訪ねたものでした…。

ある日、私の町で悲劇が起きました。一人暮らしの女性が強盗に遭い、放火までされたのです。消防車やパトカー、救急車がサイレンを響かせながらやってきて、近所じゅうの人が何が起きたのか見にきました。誰もが惨劇に衝撃を受けていました。 毎晩地域紙が配達されていましたが、その日は1面すべてが強盗について報じていました。私はすべての写真と記事を切り抜き始めました。祖母はその晩、私が切り抜きをしているときに我が家に来ました。祖母に何をしているか尋ねられ、私が答えると、「そういうのは取っておくようなニュースじゃないんだよ」と、記事を捨てるよう言われました。私は混乱しており、捨てたくはありませんでしたが、祖母に従いました。

祖母は馬が大好きで、金属製の馬を集めていました。一番上の姉のダイアン(Diane)はコレクションの一部をもらい、私は子供の時にそれで遊んでいました。ダイアンはオレゴン州(Oregon)に移りましたが、1970年代後半に家が火事に遭い、コレクションはだめになってしまいました。

ヘレンが送ってきたポストカード

1958年、祖母は旅行に行き、我が家にポストカードを送ってくれましたが、すべてが馬のものでした。

マイケルが恐れたチワワ犬・ペニー

祖母はペニー(Penny)というチワワを飼っていました。ペニーは粗暴で、私たちはみんな恐れていましたが、飼い主である祖母には忠実でした。

ある日、祖母は マリリン(Marilyn)おばさん(祖母の末っ子)夫妻と一緒に、おじさんの運転で サンタ・クララ(Santa Clara)[San Joseの誤植か?]の自宅からカリフォルニア州内のサクラメント(Sacramento, California)に住む娘に、2時間かけて会いにいきました。 サクラメント近くの高速道路でひどい事故に遭い、祖母は大けがを負いました。

ヘレン・和田・シルベイラ直筆の手紙

何人かのおじやおばが我が家に来ました。父と1人のおじがステーション・ワゴンにマットレスを載せ、祖母を連れて帰るためにサクラメントに向かいました。翌朝の早いうちに、戻ってきました。 祖母は完全には回復しませんでした。家でも椅子に座ることが多くなり、それまでのようにおしゃべりでもなくなりました。1965年11月12日、祖母は亡くなりました。訃報を聞いた時はとてもつらかったです。

ヘレンが眠る墓地 Santa-Clara-Catholic カリフォルニア

祖母の葬儀は朝でした。私は学校を休みました。その日は強い雨が降っていました。一族みんなが葬儀場に集まり、棺を閉じる前に最後の挨拶をしました。私は座りながら、親戚たちが悲しみにどう向き合うのか眺めていました。葬儀場から礼拝のため教会に行き、それから墓地に向かいました。 墓地に着いた時もいまだに強い雨が続いていたため、埋葬はできず、短く祈り、そして墓地を去りました。 午後は学校に行かなければいけませんでしたが、その気にはなれませんでした。机には座ったものの、先生はまったく見ていませんでした。ずっと祖母のことを考え、喪失感を覚えていました。

日本から受け継いだもの 祖母ヘレンの思い出=和田重次郎の子孫たち~その1~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年02月20日 木曜日
マイケル・オヘア

私 マイケル・オヘア(Michael O’Hare)は1953年に生まれ、12歳の時に祖母ヘレン(ヘレン・和田・シルベイラ)が亡くなりました。

Helen’s home

彼女(ヘレン)はカリフォルニア州サンノゼ(San Jose, California)のプラム・ストリート(Plum Street)に住んでいました。サンタ・クララ(Santa Clara)の我が家からは18kmで、よく訪ねたものでした…。

祖母の家には居住用に改装された地下室があり、そこに住んでいました。家の裏側には、地下室専用の玄関までありました。おばのロレインは上の母屋に住んでいました。 祖母の地下室はいつも暗かったのが思い出されます。家の裏側には、ロレインおばさんが住んでいた母屋に上がる階段もありました。裏にある階段を下って祖母の部屋に行き、別の裏の階段を上っておばの部屋に行っていました。玄関を使った記憶はありません。 裏庭にはパン作りのためのレンガ造りの窯がありました。

ヘレン・和田・シルベイラ 

60年代初め、祖母はサンタ・クララのボニータ・ストリート(Bonita Street)に引っ越しました。私たちの家から、たった3.2kmの場所です。 私たちは日曜日のほとんどを祖母の家で過ごしました。多くのおばやおじ、いとこも祖母の家にいました。大人たちが家の中で話をしたり食事の準備をしたりしている間、われわれ子どもたちは楽しく外で遊んでいました。 ボニータ・ストリートの新しい家の裏庭には、使われていない木製の鶏小屋がありました。私たち兄弟はアヒル捕獲を計画しており、鶏小屋をアヒルを飼うために使ってよいか尋ねたところ、祖母は許してくれました。ステーションワゴンに鶏小屋を積み込んで我が家に持って帰った時のことを、今でも思い出せます。

家が近くなったので、私たちきょうだいはよく自転車で祖母を訪ねました。祖母の家に行くまでに、山からサンタ・クララを流れ、サンフランシスコ湾の南端に注ぐ3本の小川がありました。それぞれの川に名前はあったのですが、私たちは「小川1、2、3」と呼んでいました。「小川3」を越えれば、祖母の家です。 「小川2」を自転車で越えることは許されていませんでしたが、祖母を訪ねるから「小川3」を自転車で越えてもよいか、と尋ねると、母はいつも許してくれました。 私たちが旅行に出かけると、祖母は3匹の犬に餌をやりに、毎日私たちの家に来てくれました。

祖母は私たちがいない間に掃除をしてくれていて、家に帰ると汚れひとつありませんでした。ベッドメイキングされていて、シーツや毛布、枕カバーはきれいに洗濯されていました。 祖母が私たちきょうだいの部屋を掃除する際、おもちゃなどがあるべき場所にしまわれていないと、捨てられてしまいました。旅行に行く前に全ての物をきちんとしまうことを、早くに学習しました。そうしないと、家に帰ったら、もうそこにはないのですから。 祖母は私たちの家に茶色い大きな自動車で来る前に、母に電話をしていました。祖母が来ることを伝えられたわれわれ子供たちは、はしゃいだものです。私たちの家は通りの端にあり、祖母はいつも反対側の端から来ました。

West End of Thompson Place From Graham Lane
East End of Thompson Place. O’Hare House 2 Stroy House on Left

私たちの家はトンプソン・プレイス(Thompson Place)にありました。私たちきょうだいは通りに立って、祖母の車が反対側の角を曲がってくるのを興奮しながら待ち構え、車が見えると、声を上げて飛び跳ねていました。家の前に車が停まると、ドアの周りに群がり、いっせいに祖母に抱き着こうとしました。 祖母が家に来てくれると、とても幸せでした。私たちは日々の出来事を、祖母に話しました。祖母は私たちにとても優しく、そして愛を持って接してくれました。

ある日、私たちの町で悲劇が起きました。一人暮らしの女性が強盗に遭い、放火までされたのです。消防車やパトカー、救急車がサイレンを響かせながらやってきて、近所じゅうの人が何が起きたのか見にきました。誰もが惨劇に衝撃を受けていました。

(続く)

マイケル・オヘア(Michael O’Hare)

日本から受け継いだもの~マイケル・オヘア=和田重次郎の子孫たち

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年01月01日 水曜日

私は日本から受け継いだものを母から学びました。

Michael O’Hare (right)

家族がミネソタの著者から情報を受け取り、和田重次郎が私の祖母の父だと教えてもらったのだと母はEメールで私に説明しました。私は驚き興奮し、本当だと良いなと思いましたが、少し疑わしく思っていました。 1970年代と1980年初めに、私は祖母の家族の歴史について調べていました。私は家族で上の世代の人たちの何人かに話を聞き、私たちの家族について教えてもらいましたが、誰も和田重次郎の話はしませんでした。

ヘレン・和田・シルベイラ (和田重次郎の娘)

私の祖母は1900年にサンフランシスコで生まれ、1906年の大地震の時にそこに住んでいました。 市役所にあるすべての出生、死亡、結婚届が地震とその後に起こった火事によって失われました。不幸なことに、家族に関する記録は存在しなかったのです。 もし祖母の出生証明書があったら、たくさんの情報が分かっただろうと思います。


母は、この情報を家族に教えてくれた著者のメールアドレスを私に送ってくれました。私は彼に文章で自己紹介し、その情報が本当だと証明する証拠があれば提供してもらえないか尋ねました。 彼は、祖母が重次郎を探して、アラスカにいる重次郎に書いた手紙のコピーを送ってくれました。

この話が本当だと私にとって決め手になったのは、彼が送ってくれた2枚の写真のコピーでした。この写真は、重次郎が撮って日本にいる彼の母セツに送った自分の娘の写真でした。 私は写真を見て、すぐに祖母だとわかりました。重次郎が撮った写真と同時期に撮られた祖母の写真を持っていたのですが、それらが同一人物だと疑いようもありませんでした。私は興奮し、自分が日本から受け継いだものをできるだけたくさん知りたいと思いました。 祖母は私が12歳の時に亡くなりましたが、祖母の記憶は鮮明にありました。今でも祖母が恋しいです。私は2回日本へ行ったことがありますが、できる限り頻繁に行き、もっと家族のことを知り、もっと親戚全員のことをよく知りたいと思っています。

<終わり>

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