2021年12月12日に、愛媛県美術館講堂にて「トークセッション 苦難を乗り越え 時代を駆け抜けた 三人の偉人 八木彩霞×重見周吉×和田重次郎」を開催しました。多くの方々に参加していただき、盛会のうちに終えることができました。
ハリー・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その2~
和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オヘア姓(長男:エディー、次男:ハリー、三男:ドナルド、四男:レオナルド、長女:フアニタ、次女:アダメ、三女:エディス)2.ワイト姓(長男:ハラルド、次男:ロバート、長女:ロレイン、次女:ルシール、三女:ルース、四女:ノーマ、五女:メルビン)、3.メレディオス姓(長男:リチャード)、4.ピーター姓、5.メドック姓など現在では100人以上の子孫を残しています。
by Michael O’Hare (マイケル・オヘア) は和田重次郎の1人娘、ヘレン・和田・シルベイラの三男(ドナルド)の息子です。ハリーおじさんはヘレンの次男にあたります。
ハリーロサンジェルスからサンノゼへ引っ越す
私(マイケル・オヘア)の父(ドナルド)は、1960年代初めに働いていた会社で、時々ロサンゼルス地域に出張しました。父はパイロットの免許を持っており、会社の飛行機をロサンゼルスまで運転していました。そのたびに父はいつもハリーおじさんを訪ね、私たち(私と兄と妹たち)は、ハリーおじさんを訪問した話を父から聞くのを楽しんでいました。
彼ら(ハリーおじさん一家)がサンノゼに住んでいた時、彼らは大きな古い家を持っていました。そこにエレベーターがあったことを覚えていますが、私たち子供はよくそれに乗り、登ったり降りたりしていました。私の記憶が正しいか自信がなかったので、いとこのロン(ハリーの四男)に聞いてみましたが、彼は、それは給仕用エレベーターだったかもしれないと言っています。恐らく彼が正しいです。いずれにしても、私たちはそれに乗るのをとても楽しんでいました。
家の前には、修理が必要な大きなスイミングプールがありました。父(ドナルド)は、ハリーおじさんと多分リチャードおじさんも一緒に、プールの修理に取り組みました。私は水のないプールの中を歩き回り、一番深いところまで行きました。私は水なしで一番深いところに行くのがとてもかっこいいと思いました。プールの端がとても高く感じました。
その後その家は取り壊され、今は6車線の高速道路になっています。
発明家のハリー・オヘア
ハリーおじさんは発明家でした。たくさんの製品を作りました。一番有名なのはトイレ用洗剤のTy-D-Bolです。1958年に発明し、1960に会社に売りました。
1968年から1984年までの最も有名なテレビCMの1つに、Ty-D-Bolがありました。ヨットのユニホームを着てトイレタンクの中でボートを漕ぐ男性が出てきます。その男はTy-D-Bolマンと呼ばれ、アメリカのアイコンになりました。現在でも人々はTy-D-Bolマンを覚えていて、芸人の一人芝居に時々出てきます。
ハリーおじさんは他の種類の洗剤や、プールの塩素注入機、浄水システムも発明しました。
ハリーおじさんは浄水システムを1980年代に作っていました。その会社はHOHウォーター・テクノロジーと言います。おじさんは当時、カリフォルニアのサウザンドオークスに住んでいました。ロサンゼルスから車で1時間ほど北にある街です。私の両親もそこに数か月住んでいたので、父はハリーおじさんが浄水器を作るのを手伝うことができました。
浄水器の権利は色々な会社に数回売られ、ロン(ハリーの四男)は昨年退職するまで、従業員たちに使用方法の技術を教えました。
父は私たちに、1940年代終わりと1950年代初めに、ハリーおじさんが反重力ボールか機械を発明した話をいつも教えてくれました。アメリカ軍はそれを学習し、彼から取り上げました。
人気者のハリー
ハリーおじさんは一緒にいて楽しい人でした。おじさんはいつも私たちを笑わせてくれました。
おじさんがサウザンドオークスに住んでいた時、私にそこに引っ越して来いと言い続けていました。おじさんは自分の人生をイエス・キリストに捧げてキリスト教徒になったのだと言い、私がおじさんに聖書を教えることを望んでいました。私はついに1985年にそこに引っ越し、2年間そこにいました。*語り手のマイケルは教会の牧師です。
私がほかの親戚を訪ねる時はいつでも、ハリーおじさんが話題に上がり、おじさんの思い出を共有しました。
和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの三男ドナルドの息子
ハリー・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その1~
和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オヘア姓(長男:エディー、次男:ハリー、三男:ドナルド、四男:レオナルド、長女:フアニタ、次女:アダメ、三女:エディス)2.ワイト姓(長男:ハラルド、次男:ロバート、長女:ロレイン、次女:ルシール、三女:ルース、四女:ノーマ、五女:メルビン)、3.メレディオス姓(長男:リチャード)、4.ピーター姓、5.メドック姓など現在では100人以上の子孫を残しています。
(by Michael O’Hare/ 語り手:三男ドナルドの息子、マイケル・オヘア)
次男ハリー・ヘアの思い出
ハリーおじさんは、ハリー・オヘアとヘレン・シルベイラ和田の第二子(次男)です。彼の名前は父親にちなんで付けられました。
1920年5月4日、アイオワ州ウォータールーで生まれました。今年2020年5月4日は100歳の誕生日でした。
私の父(ドナルド・オヘア)とは年の差が1年しかなかったため、幼少期から親しくしていました。
ハリーはエルヴィラ・マリー・ファルコーネと結婚しました。彼女はプラム通りの家で育ち、カリフォルニア州サンノゼの祖母ヘレンの家の隣の家か、数軒下の家(どちらかは覚えていません)で育ちました。
ハリーとエルヴィラには二人の息子がいました。
- ハリー・マイケル3世 (私たちは彼をブッチと呼んでいました。残念ながら1990年に亡くなりました)
- デニス・マービン
子供の頃、私の兄弟と私は、エルビラをミドルネームであるマリーと呼んでいました。彼女は素晴らしく、非常に親切で素敵な女性でした。後年、彼女は文房具店で働いていました。兄と妹と私が母と一緒に町にいた時は、いつも彼女に会うために店に立ち寄っていました。私が大きくなってからも彼女に会いに立ち寄ったものでした。文房具が必要なときは、いつも文房具店に買いに行き、母に会いに行っていました。ハリーとマリーは別れました。
ハリー2度目の結婚
ハリーはドリス・メイ・トルースデルと出会い7人の子供をもうけました。
- ロナルド・ジョセフ
- フランク・アラン
- ロバート・フランシス 私たちは彼をボブやボビーと呼んでいました
- ロジャー・トーマス:2002年に逝去
- ティモシー・ジェームズ(シンシアと双子)
- シンシア・リー(ティモシーと双子。2017年に逝去)
- ダニエル・ジョン
ドリスおばさんは素晴らしい女性でした。とても親切で思いやりがありました 。私は彼女の笑顔と笑い声を覚えています。悲しいことに彼女は1972年に交通事故で亡くなりました。そのニュースを聞いたとき、私たちは皆大きなショックを受けました。
左からドリス、シンディー、ティモシー、ロジャー、ロバート、フランク、ロン
(末っ子のダニエルはまだ生まれていない)
ロサンジェルスへの引っ越し
私たちは若い頃、いとこ同士で遊びました。ハリーおじさんの家族はロサンゼルスに引っ越してしまい、私たちは滅多に会うことはありませんでした。1970年に彼らがロサンゼルスのアナハイムに住んでいた時には、時たまサンタクララに来て私たちを訪ねてきてくれましたし、私の家族も彼らのところに遊びに行きました。
彼らはディズニーランドの近くに住んでいました。彼らにはディズニーランドで働いている友人がいて、乗り物のチケットをたくさん買ってくれたので、私たちは何も買う必要がありませんでした。それはそれで楽しかったですね。
彼らが住んでいた家にはプールがありました。私たちがいた時は夏だったので、暑かったです。年上のいとこたちは、家の屋根からプールに飛び込みました。私はそれを見て、どんなに楽しいだろうと思いました。私は高所恐怖症だったので、それをしたことはありませんでした。
その旅行の後、私たちは数年間彼らに会うことはありませんでした。ここ数年で何人かのいとこたちと再会し、彼らと知り合うことを楽しんでいます。
ー続くー
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和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの3男ドナルドの息子
フランク・コッターの重次郎ストーリー
重次郎の友人フランク・コッターが、全米日系新聞に語った和田ストーリーPART1を作成しました。コッターの人物像とアメリカ側で知られているのジェームス(重次郎のニックネーム)の生い立ちの違いに注目です。(原文そのまま翻訳です。)
和田重次郎に関する新しい論文が発表されました。アラスカを開拓した日系一世 和田重次郎 菅紀子さん
和田重次郎に関する新しい論文が発表されました。
アラスカを開拓した日系一世和田重次郎
―― 金鉱発見をめぐる3人の協働者の明暗を中心に――松山大学論集
892年に米国本土に単独密航した和田重次郎を取り上げる。近年
和田の出身地で顕彰活動が活発化し遺品や一部資料も収集されたことから移民
先へも協力が求められ,日本と北米双方に顕彰の拠点が形成され交流も盛んと
なった。まずこうした活動を確認する。次に和田の移民個人史を概観する。特
に和田はアラスカ,カナダの開拓に大きな功績をあげ頻繁に報道された。しか
しある時期から急にメディアへの露出が減り,以後不明な点を残したまま孤独
死を迎えている
日本から受け継いだもの エドワード・フランシス・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その2~
和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オーヘア姓(長男:エディー、次男:ハリー、三男:ドナルド、四男:レオナルド、長女:ヘレン、次女:アダメ、三女:エディス)2.ワイト姓(長男:ハラルド、次男:ロバート、長女:ロレイン、次女:ルシール、三女:メルビン)、3.メレディオス姓(長男:リチャード)、4.ピーター姓、5.メドック姓など現在では100人以上の子孫を残しています。
第三子を妊娠したリンダのため、サプライズパーティーが計画されていました。しかし、サプライズのためにレストランに集まった人たちは、逆に驚かされる結果となりました。リンダは産気づき、レストランに現れることはなかったのです。
エディー(Eddie)おじさんは、サンノゼ(San Jose)のストーリー・ロード(Story Road)にあるトロピカーナ・ショッピングセンター(Tropicana Shopping Center)の食べ放題レストランで働いていました。家族でよく食べに行ったものです。おじさんはいつも厨房から私たちの席に来て、話をしました。私たちは食べ終わると、厨房に入り、おじさんに挨拶してから帰っていました。おじさんが料理長であり、厨房に入って挨拶するという、他のお客さんができないことをしていたことは、子供だった私にとって、特別で大切なものに感じられていました。
歌うのが好きだったおじさんは、カントリーミュージックがお気に入りでした。おじさんは熱心な民主党員で、近所に政治パンフレットを配らせるため、リンダなど子供たちを民主党員にしました。非常に社交的な性格で、多くの友人・知人がいたエディーおじさんは、1969年12月7日に帰らぬ人となりました。
父は訃報を聞いたあと、裏庭をずっと歩き回り、泣いていました。私も裏庭にいて、父のことを見つめていました。その姿は一生忘れられません。エディおじさんは母親のヘレンと同じ墓地、すぐ近くに埋葬されました。2016年現在、エディーおじさんの子孫は36人になっています。
マイケル・オヘア(Michael O’Hare)
和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの3男ドナルドの息子
日本から受け継いだもの エドワード・フランシス・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その1~
和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オーヘア姓、2.ワイト姓、3.メレディオス姓、4.ピーター姓、5.メドック姓 現在では100人以上の子孫を残しています。
エドワード(Edward)はハリー・マイケル=オヘア(Harry Michael O’Hare)、ヘレン・シルビア=ワダ(Helen Silveira Wada)夫妻にとって初めての子でした。 1918年2月2日にカリフォルニア州サンフランシスコ(San Francisco, California)で生まれた彼は、存命であれば今年102歳を迎えます。
エドワードが生まれてすぐ、一家はアイオワ州ウォータールー(Waterloo, Iowa)のアダムズ・ストリート(Adams Street)に引っ越しました。
父は鉄道員として働いていました。中西部出身の父にとって、引っ越しは故郷への帰還でもありました。 1928年ごろ両親は離婚しました。7人の子を連れて、祖母は育ったカリフォルニア州サリナス(Salinas)の農場に戻った一方で、父はウォータールーに留まりました。のちに父はカリフォルニア州に移り、ヘレンや子供たちと連絡を取り続けました。
エドワードは成人し、ドロレス・アキスタペース(Dolores Acquistapace)と結婚しました。ドロレスは優しく、愛らしく、そして素晴らしい笑顔の持ち主でした。夫妻は、リンダ(Linda)、エドワード・ジュニア(Edward Jr.)、パトリック(Patrick)、モーリーン(Maureen)の4人の子供に恵まれました。残念ながら、パトリックはがんのため昨年(2018)この世を去りました。
一家はサンノゼ(San Jose)のエンパイア・ストリート(Empire Street)に住んでいました。サンノゼの家を訪れた時の素晴らしい記憶が思い出されます。バンガロースタイルの家で、大きなベランダに続く階段もありました。
エディー(Eddie)おじさん(私たちはこう呼んでいました)は陸軍で調理人として働いたのち、シェフとなりました。サンノゼのセンター・ロード(Senter Road)にあったデル・モニコ・レストラン(Del Monico’s Restaurant)でおじさんが働いていた時の思い出を、おじさんの娘のリンダと語り合ったものです。
マイケル・オヘア(Michael O’Hare)
日本から受け継いだもの 祖母ヘレンの思い出=和田重次郎の子孫たち ~その2~
私は1953年に生まれ、12歳の時に祖母が亡くなりました。彼女はカリフォルニア州サンノゼ(San Jose, California)のプラム・ストリート(Plum Street)に住んでいました。サンタ・クララ(Santa Clara)の我が家からは18kmで、よく訪ねたものでした…。
ある日、私の町で悲劇が起きました。一人暮らしの女性が強盗に遭い、放火までされたのです。消防車やパトカー、救急車がサイレンを響かせながらやってきて、近所じゅうの人が何が起きたのか見にきました。誰もが惨劇に衝撃を受けていました。 毎晩地域紙が配達されていましたが、その日は1面すべてが強盗について報じていました。私はすべての写真と記事を切り抜き始めました。祖母はその晩、私が切り抜きをしているときに我が家に来ました。祖母に何をしているか尋ねられ、私が答えると、「そういうのは取っておくようなニュースじゃないんだよ」と、記事を捨てるよう言われました。私は混乱しており、捨てたくはありませんでしたが、祖母に従いました。
祖母は馬が大好きで、金属製の馬を集めていました。一番上の姉のダイアン(Diane)はコレクションの一部をもらい、私は子供の時にそれで遊んでいました。ダイアンはオレゴン州(Oregon)に移りましたが、1970年代後半に家が火事に遭い、コレクションはだめになってしまいました。
1958年、祖母は旅行に行き、我が家にポストカードを送ってくれましたが、すべてが馬のものでした。
祖母はペニー(Penny)というチワワを飼っていました。ペニーは粗暴で、私たちはみんな恐れていましたが、飼い主である祖母には忠実でした。
ある日、祖母は マリリン(Marilyn)おばさん(祖母の末っ子)夫妻と一緒に、おじさんの運転で サンタ・クララ(Santa Clara)[San Joseの誤植か?]の自宅からカリフォルニア州内のサクラメント(Sacramento, California)に住む娘に、2時間かけて会いにいきました。 サクラメント近くの高速道路でひどい事故に遭い、祖母は大けがを負いました。
何人かのおじやおばが我が家に来ました。父と1人のおじがステーション・ワゴンにマットレスを載せ、祖母を連れて帰るためにサクラメントに向かいました。翌朝の早いうちに、戻ってきました。 祖母は完全には回復しませんでした。家でも椅子に座ることが多くなり、それまでのようにおしゃべりでもなくなりました。1965年11月12日、祖母は亡くなりました。訃報を聞いた時はとてもつらかったです。
祖母の葬儀は朝でした。私は学校を休みました。その日は強い雨が降っていました。一族みんなが葬儀場に集まり、棺を閉じる前に最後の挨拶をしました。私は座りながら、親戚たちが悲しみにどう向き合うのか眺めていました。葬儀場から礼拝のため教会に行き、それから墓地に向かいました。 墓地に着いた時もいまだに強い雨が続いていたため、埋葬はできず、短く祈り、そして墓地を去りました。 午後は学校に行かなければいけませんでしたが、その気にはなれませんでした。机には座ったものの、先生はまったく見ていませんでした。ずっと祖母のことを考え、喪失感を覚えていました。