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和田重次郎 History

1875年(明治8年)
日の出町の河川緑地公園にある子規の句碑「新場処や 紙つきやめば なく水鶏(くいな)」

当時 日の出町は、紙の里であった。重次郎の育った日の出町の河川緑地公園にある子規の句碑「新場処や 紙つきやめば なく水鶏(くいな)」

 

1月6日 愛媛県周桑郡小松町(現西条市)にて、父和田源八(旧小松藩士)と母セツの次男として生まれる。

1879年(明治12年) 4歳
父源八が病死し、母セツの実家のある愛媛県温泉郡素鵞村(現 松山市日の出町)に身を寄せる。
1886年(明治19年) 11歳
母セツの親戚にあたる「戸田製紙」にて働く。

1887年(明治20年)12歳

重次郎が成長するにつれ、母は重次郎のしつけに苦労するようになった。12歳から13歳の2年間、一緒に住んでいた戸田キンベイの父親が面倒を見た。しかし、重次郎の素行が悪く、キンベイの父を困らせてた。この頃、重次郎は既に渡米に興味を見せていた。

1891年(明治24年)16歳

          神戸の商社で働くため、松山を離れる。

1892年(明治25年) 17歳
バラエナ号

バラエナ号

 

「住友になる」という大志を抱き、アメリカに密航。
商社での同僚の手伝いにより、サンフランシスコ行きの貨物船の大きなお茶の箱に身を隠して乗り込んだ。サンフランシスコに上陸後、

重次郎は職を探して歩いたが、英語が話せなかった。状況が変わったのは、薬を飲まされ、誘拐されてからだった。サンフランシスコのバーで見知らぬ人と数杯飲みに行ったが、目覚めたら、北氷洋に向かう捕鯨船バラエナ号に乗っていた。捕鯨では人手不足をこのように解決していた。重次郎は、総額80ドルで三年間働く契約に署名させられた。

捕鯨補助艦バラエナ号は前年に造船され、3月15日にサンフランシスコを初出航したに乗り、三年間北氷洋で働く。このとき、船長ノーウッドから英語・地理等の知識を修得する。ノーウッドはエスキモーの言語を話せたので、重次郎はノーウッドからエスキモーの言語を習い始めたかもしれない。料理は重次郎の主な担当の一つだった。何名か猟師も乗船しており、重次郎は徐々かれらに同行し、ライチョウ、鹿猟に参加するようになった。(バラエナ号には数匹の犬とそりを乗せていたと記録されている。)重次郎は犬ぞり使いと狩猟の名手となり、ハーシェル島での長い冬の間、マッケンジー川からの水汲みのような重労働も、犬ぞりで容易となった。

サンフランシスコに入港中の捕鯨船バラエナ号(下右写真の左)とオルカ号(下左写真の正面)(ニュー・ベッドフォード捕鯨博物館提供)。この埠頭から、重次郎はバラエナ号に乗り北極圏へ出航した。日本からサンフランシスコとハーシェル島のルート(下写真)。

Balaena号のHerschel航路

1892年から1893年の冬、ハーシェル島には、ナーワル号(スミス船長)、バラエナ号(ノーウッド船長)、グランパス号(ヴィンセント船長)、ニューポート号(ポーター船長)の4隻の船があった。これらの船は10月中旬に来て、翌年6月末までに出航する。つい1890年から1891年の冬には2隻(ノーウッド船長とティルトン船長)しかなかったため、北極圏での捕鯨船の増加がうかがい知れる。ハーシェル島で越冬する主な理由は、1シーズン内で渡航、十分な鯨を捕獲後に帰港するのはほぼ不可能だった為である。捕鯨の目的は油とひげで、1頭から、潤滑油と燃料に使われる約100バレルの油と、最大700本(重量2000ポンド)のひげが取れる。ひげは、コルセット、傘、日傘、サスペンダー、杖、鞭などのために、強い需要があった。1頭は約15,000ドルの価値があった。後に、時には1年に30隻にもなるほどの捕鯨船の増加が、鯨の減少を招き、さらに石油からの合成材料の発展が価格低下を引き起こし、北極での捕鯨は1911年までに終わった。

1893年(明治26年)18歳

  アイザック・O・ストリンガーは英国国教会の宣教師で、1892年から1931年にユーコン地域で活動していた。彼は当初1860年代からユーコン地域で活動していた大助祭マクドナルドの家に居候をしており、1893年以降、ストリンガーは一人でユーコンを布教して周った。カナダ人のセイディーと結婚後は、頻繁にフォート・マクファーソンからハーシェル島を訪れた。

「私たちが1893年の5月にハーシェル島を初めて訪れた時、初めて和田とノーウッド船長と出会った。和田は雷鳥狩りに出ていた。ノーウッド船長は和田に大変満足していて、非常に賢いと褒めていた。その年のバラエナ号の捕鯨量は52頭だった。」(英国教会日記 アイザック・O・ストリンガー 1893-1901)

北極での捕鯨の初期、ほとんどの船員は多国籍で、様々な場所から亡命していた。彼らの先住民への影響は良いものではなかった。また、アルコールの需要が高く、1903年まで法執行機関がなかったため、レイプや暴力のような犯罪が頻発していた。ストリンガーがその地域に到着した後、事態は改善し、家族を連れてくる船長が増え、さらに、アルコールの禁止令が多くの場所で施行された。

(明治27年) <日清戦争勃発>
1894年(明治27年)19歳 

  ノーウッド船長がバラエナ号はもうハーシェル島には恐らく戻らないと伝えたため、3期後のサンフランシスコ帰港の際、和田は自らバラエナ号での職務を終わらせた。ノーウッド船長は病気になった。地元紙レジスターによると、その後、彼はノバスコシアのバーウィックにある地元に短期間戻り、1897年に再びクロンダイクに戻った。地元で、J・M・ジャルヴィスが彼のためにクランベリーを約4ヘクタール植えてくれた。

1895年(明治28年)20歳

3月25日 バラエナ号は和田を乗せてサンフランシスコからハーシェル島に向けて出港した。前年の秋には、彼は今度はマレー船長の元で、バラエナ号で船室係になっていた。

和田は、猟で42の鞍下肉を持って帰ってきたと報じられている。

4月 英国教会宣教師アイザック・Oとセイディーのストリンガー夫妻がフォート・マクファーソンからちょうどハーシェル島を訪れた際に、和田がナーワル号のトーマスと一緒にリチャーズ島とシングルポイントにあるロバートソンのキャンプに遠出していた時に、和田の所有物が入った箱が見つかった。和田が通った道は分からないが、ショールウォーター湾まで来ていたと報じられている。箱には薬、マッチ、蝋燭、はさみ、香料、麻糸、石鹸、数冊の小さな本があり、本には英語や日本語のメモがあった。

5月 和田(当時ワディーと呼ばれるようになっていた)はヴァーナムと一緒にハーシェル島に戻った。彼は数匹の大きな魚、20の鞍下肉、毛皮を持っており、マッケンジー川に水がないという報告も持って帰ってきた。

8月 ウィリアム船長の元でハーシェル島からサンフランシスコに戻ったバラエナ号は、8月に戻る予定であった。和田とマレーは乗船せず、ハーシェル島に残った。この頃、ハーシェル島からサンフランシスコまで18から24日かかった。アイザック・Oとセイディーのストリンガー夫妻がまたハーシェル島を訪れた際、彼らは和田のテントで朝食を取った。和田は、夫妻を何度か食事のために家にも招いた。

9月 和田はハーシェル島に滞在していたと言及されており、マレー船長の元で、彼の担当は未だ料理も含まれていた。

10月 少なくとも4月から9月の間のハーシェル島滞在の後、彼はカリフォルニアに再び向かった。アイザック・Oとセイディーのストリンガー夫妻がサンフランシスコに戻った時、到着直後に和田に会ってくれた。ストリンガーはサンフランシスコ訪問中に太平洋蒸気捕鯨社を訪問し、ノールズ船長とハーシェル島での宿の建設について議論中の大工のヴィーチにも会った。後に、ストリンガーは毛皮商人のハーマン・リーブスにも会い、一緒に写真を撮っている。

 

1896年(明治29年) 21歳

秋、日本に一時帰国し、母に孝養を尽くす
1897年(明治30年) 22歳
犬ぞりと狩猟の名手となる

犬ぞりと狩猟の名手となる

 

アラスカに戻ると、原住民のイヌイットさえ恐れていた北極圏の奥地を探検し、犬ぞり使いと狩猟の名手となる。
氷に閉じ込められた二ューポート号をジェニー号に乗り救援する。救援の時、後のタバスコ王となるマッキルヘニーⅢ世と知り合う。

1903年(明治36年) 28歳
フェアバンクスでの金鉱発見を伝える重次郎「ユーコン・サン紙」

フェアバンクスでの金鉱発見を伝える重次郎「ユーコン・サン紙」

 

毛皮交易商をしながらアラスカ・カナダで金鉱発掘をする。
特にフェアバンクスで金鉱を発見し、登録申請をするためにカナダのドウソンに駆けこむと、そのことが新聞記事に掲載され、金鉱を探し求める人々がどっとフェアバンクスに押し寄せ、アラスカ開拓史上名高い「タナナ・スタンピード」が起きる。

1904年(明治37年) <日露戦争勃発>
1906年(明治39年) 31歳
イヌイットのキングとなる。(右から2人目)

イヌイットのキングとなる。(右から2人目)

 

原住民イヌイットの生活向上に尽くし、三つの村を統括するキングになる。

1907年(明治40年) 32歳
屋内マラソンで連続優勝

屋内マラソンで連続優勝

 

ノームでの50マイル(80キロ) 屋内マラソンで優勝(連続)し、「グレイト・ワダ」と称えられる。

1908年(明治41年) 33歳
前人未踏のドウソンから5,000マイル(8,000キロ) に及ぶ北極海沿岸を犬ぞりで探検し、新聞で大きく報じられる。

 

犬ぞり

1909年(明治42年) 34歳
alaska_mapセワード商工会議所から、セワードからアイディタロット鉱山までのトレイル(雪道)の開拓を依頼され、30隊の犬ぞりを率いて調査する。そのトレイルのおかげで、1924年ノームでジフテリアが発生した時、フェアバンクスから犬橇で血清を運ぶことができ、多くの人の命を救える。これを記念して世界最長の犬橇レース、アイディタロッド国際犬橇レースが1973年から始まる。
1913年(大正2年) 38歳
重次郎の母セツ

重次郎の母セツ

 

タバスコ王マッキルヘニーと協働する。

1914年(大正3年) 39歳 <第一次世界大戦勃発>
晩年の重次郎

晩年の重次郎

 

ワダ・スパイ説が流れ、行方不明となり、一人娘の日米子が捜索願いの新聞記事を出す。

1920年(大正9年) 45歳
カナダ政府の油田調査員となり、北極圏からマッケンジー河全流域を探検する。
1933年(昭和8年) 58歳
顕彰碑、胸像、文学碑

顕彰碑、胸像、文学碑

 

8月15日 母セツ 松山市日の出町で死亡する。

1937年(昭和12年) 62歳
3月5日 アメリカのサンディエゴ郡病院で死亡する。
2007年(平成19年)
重次郎の育った日の出町の緑地公園に顕彰碑、胸像、文学碑の三基が建立される。

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