2025年5月3日に、アラスカ公演10周年を記念して、みかん一座ミュージカル「オーロラに駆けるサムライ和田重次郎物語」の凱旋公演の上映会が開催されました。









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和田重次郎の生涯を描いたみかん一座ミュージカル「オーロラに駆けるサムライ~和田重次郎物語~」は、2011年から県内各地で公演し、2015年5月には、アラスカで公演されました。今回は、重次郎が幼少期を過ごした素鵞村での親子愛や住民との温かい触れあいを描いたもので、みかん一座と素鵞地区住民とのコラボによるものです。










2021年12月12日に、愛媛県美術館講堂にて「トークセッション 苦難を乗り越え 時代を駆け抜けた 三人の偉人 八木彩霞×重見周吉×和田重次郎」を開催しました。多くの方々に参加していただき、盛会のうちに終えることができました。
和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オヘア姓(長男:エディー、次男:ハリー、三男:ドナルド、四男:レオナルド、長女:フアニタ、次女:アダメ、三女:エディス)2.ワイト姓(長男:ハラルド、次男:ロバート、長女:ロレイン、次女:ルシール、三女:ルース、四女:ノーマ、五女:メルビン)、3.メレディオス姓(長男:リチャード)、4.ピーター姓、5.メドック姓など現在では100人以上の子孫を残しています。
by Michael O’Hare (マイケル・オヘア) は和田重次郎の1人娘、ヘレン・和田・シルベイラの三男(ドナルド)の息子です。ハリーおじさんはヘレンの次男にあたります。
私(マイケル・オヘア)の父(ドナルド)は、1960年代初めに働いていた会社で、時々ロサンゼルス地域に出張しました。父はパイロットの免許を持っており、会社の飛行機をロサンゼルスまで運転していました。そのたびに父はいつもハリーおじさんを訪ね、私たち(私と兄と妹たち)は、ハリーおじさんを訪問した話を父から聞くのを楽しんでいました。
彼ら(ハリーおじさん一家)がサンノゼに住んでいた時、彼らは大きな古い家を持っていました。そこにエレベーターがあったことを覚えていますが、私たち子供はよくそれに乗り、登ったり降りたりしていました。私の記憶が正しいか自信がなかったので、いとこのロン(ハリーの四男)に聞いてみましたが、彼は、それは給仕用エレベーターだったかもしれないと言っています。恐らく彼が正しいです。いずれにしても、私たちはそれに乗るのをとても楽しんでいました。
家の前には、修理が必要な大きなスイミングプールがありました。父(ドナルド)は、ハリーおじさんと多分リチャードおじさんも一緒に、プールの修理に取り組みました。私は水のないプールの中を歩き回り、一番深いところまで行きました。私は水なしで一番深いところに行くのがとてもかっこいいと思いました。プールの端がとても高く感じました。
その後その家は取り壊され、今は6車線の高速道路になっています。
ハリーおじさんは発明家でした。たくさんの製品を作りました。一番有名なのはトイレ用洗剤のTy-D-Bolです。1958年に発明し、1960に会社に売りました。

1968年から1984年までの最も有名なテレビCMの1つに、Ty-D-Bolがありました。ヨットのユニホームを着てトイレタンクの中でボートを漕ぐ男性が出てきます。その男はTy-D-Bolマンと呼ばれ、アメリカのアイコンになりました。現在でも人々はTy-D-Bolマンを覚えていて、芸人の一人芝居に時々出てきます。
ハリーおじさんは他の種類の洗剤や、プールの塩素注入機、浄水システムも発明しました。
ハリーおじさんは浄水システムを1980年代に作っていました。その会社はHOHウォーター・テクノロジーと言います。おじさんは当時、カリフォルニアのサウザンドオークスに住んでいました。ロサンゼルスから車で1時間ほど北にある街です。私の両親もそこに数か月住んでいたので、父はハリーおじさんが浄水器を作るのを手伝うことができました。
浄水器の権利は色々な会社に数回売られ、ロン(ハリーの四男)は昨年退職するまで、従業員たちに使用方法の技術を教えました。
父は私たちに、1940年代終わりと1950年代初めに、ハリーおじさんが反重力ボールか機械を発明した話をいつも教えてくれました。アメリカ軍はそれを学習し、彼から取り上げました。
ハリーおじさんは一緒にいて楽しい人でした。おじさんはいつも私たちを笑わせてくれました。
おじさんがサウザンドオークスに住んでいた時、私にそこに引っ越して来いと言い続けていました。おじさんは自分の人生をイエス・キリストに捧げてキリスト教徒になったのだと言い、私がおじさんに聖書を教えることを望んでいました。私はついに1985年にそこに引っ越し、2年間そこにいました。*語り手のマイケルは教会の牧師です。

私がほかの親戚を訪ねる時はいつでも、ハリーおじさんが話題に上がり、おじさんの思い出を共有しました。




和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの三男ドナルドの息子
和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オヘア姓(長男:エディー、次男:ハリー、三男:ドナルド、四男:レオナルド、長女:フアニタ、次女:アダメ、三女:エディス)2.ワイト姓(長男:ハラルド、次男:ロバート、長女:ロレイン、次女:ルシール、三女:ルース、四女:ノーマ、五女:メルビン)、3.メレディオス姓(長男:リチャード)、4.ピーター姓、5.メドック姓など現在では100人以上の子孫を残しています。
(by Michael O’Hare/ 語り手:三男ドナルドの息子、マイケル・オヘア)
ハリーおじさんは、ハリー・オヘアとヘレン・シルベイラ和田の第二子(次男)です。彼の名前は父親にちなんで付けられました。
1920年5月4日、アイオワ州ウォータールーで生まれました。今年2020年5月4日は100歳の誕生日でした。
私の父(ドナルド・オヘア)とは年の差が1年しかなかったため、幼少期から親しくしていました。


ハリーはエルヴィラ・マリー・ファルコーネと結婚しました。彼女はプラム通りの家で育ち、カリフォルニア州サンノゼの祖母ヘレンの家の隣の家か、数軒下の家(どちらかは覚えていません)で育ちました。

ハリーとエルヴィラには二人の息子がいました。
子供の頃、私の兄弟と私は、エルビラをミドルネームであるマリーと呼んでいました。彼女は素晴らしく、非常に親切で素敵な女性でした。後年、彼女は文房具店で働いていました。兄と妹と私が母と一緒に町にいた時は、いつも彼女に会うために店に立ち寄っていました。私が大きくなってからも彼女に会いに立ち寄ったものでした。文房具が必要なときは、いつも文房具店に買いに行き、母に会いに行っていました。ハリーとマリーは別れました。
ハリーはドリス・メイ・トルースデルと出会い7人の子供をもうけました。

ドリスおばさんは素晴らしい女性でした。とても親切で思いやりがありました 。私は彼女の笑顔と笑い声を覚えています。悲しいことに彼女は1972年に交通事故で亡くなりました。そのニュースを聞いたとき、私たちは皆大きなショックを受けました。

私たちは若い頃、いとこ同士で遊びました。ハリーおじさんの家族はロサンゼルスに引っ越してしまい、私たちは滅多に会うことはありませんでした。1970年に彼らがロサンゼルスのアナハイムに住んでいた時には、時たまサンタクララに来て私たちを訪ねてきてくれましたし、私の家族も彼らのところに遊びに行きました。
彼らはディズニーランドの近くに住んでいました。彼らにはディズニーランドで働いている友人がいて、乗り物のチケットをたくさん買ってくれたので、私たちは何も買う必要がありませんでした。それはそれで楽しかったですね。

彼らが住んでいた家にはプールがありました。私たちがいた時は夏だったので、暑かったです。年上のいとこたちは、家の屋根からプールに飛び込みました。私はそれを見て、どんなに楽しいだろうと思いました。私は高所恐怖症だったので、それをしたことはありませんでした。
その旅行の後、私たちは数年間彼らに会うことはありませんでした。ここ数年で何人かのいとこたちと再会し、彼らと知り合うことを楽しんでいます。

ー続くー
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和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの3男ドナルドの息子
重次郎の友人フランク・コッターが、全米日系新聞に語った和田ストーリーPART1を作成しました。コッターの人物像とアメリカ側で知られているのジェームス(重次郎のニックネーム)の生い立ちの違いに注目です。(原文そのまま翻訳です。)
和田重次郎に関する新しい論文が発表されました。
アラスカを開拓した日系一世和田重次郎
―― 金鉱発見をめぐる3人の協働者の明暗を中心に――松山大学論集
892年に米国本土に単独密航した和田重次郎を取り上げる。近年
和田の出身地で顕彰活動が活発化し遺品や一部資料も収集されたことから移民
先へも協力が求められ,日本と北米双方に顕彰の拠点が形成され交流も盛んと
なった。まずこうした活動を確認する。次に和田の移民個人史を概観する。特
に和田はアラスカ,カナダの開拓に大きな功績をあげ頻繁に報道された。しか
しある時期から急にメディアへの露出が減り,以後不明な点を残したまま孤独
死を迎えている
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