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日本から受け継いだもの 祖母ヘレンの思い出=和田重次郎の子孫たち ~その2~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年02月25日 火曜日
Helen’s home

私は1953年に生まれ、12歳の時に祖母が亡くなりました。彼女はカリフォルニア州サンノゼ(San Jose, California)のプラム・ストリート(Plum Street)に住んでいました。サンタ・クララ(Santa Clara)の我が家からは18kmで、よく訪ねたものでした…。

ある日、私の町で悲劇が起きました。一人暮らしの女性が強盗に遭い、放火までされたのです。消防車やパトカー、救急車がサイレンを響かせながらやってきて、近所じゅうの人が何が起きたのか見にきました。誰もが惨劇に衝撃を受けていました。 毎晩地域紙が配達されていましたが、その日は1面すべてが強盗について報じていました。私はすべての写真と記事を切り抜き始めました。祖母はその晩、私が切り抜きをしているときに我が家に来ました。祖母に何をしているか尋ねられ、私が答えると、「そういうのは取っておくようなニュースじゃないんだよ」と、記事を捨てるよう言われました。私は混乱しており、捨てたくはありませんでしたが、祖母に従いました。

祖母は馬が大好きで、金属製の馬を集めていました。一番上の姉のダイアン(Diane)はコレクションの一部をもらい、私は子供の時にそれで遊んでいました。ダイアンはオレゴン州(Oregon)に移りましたが、1970年代後半に家が火事に遭い、コレクションはだめになってしまいました。

ヘレンが送ってきたポストカード

1958年、祖母は旅行に行き、我が家にポストカードを送ってくれましたが、すべてが馬のものでした。

マイケルが恐れたチワワ犬・ペニー

祖母はペニー(Penny)というチワワを飼っていました。ペニーは粗暴で、私たちはみんな恐れていましたが、飼い主である祖母には忠実でした。

ある日、祖母は マリリン(Marilyn)おばさん(祖母の末っ子)夫妻と一緒に、おじさんの運転で サンタ・クララ(Santa Clara)[San Joseの誤植か?]の自宅からカリフォルニア州内のサクラメント(Sacramento, California)に住む娘に、2時間かけて会いにいきました。 サクラメント近くの高速道路でひどい事故に遭い、祖母は大けがを負いました。

ヘレン・和田・シルベイラ直筆の手紙

何人かのおじやおばが我が家に来ました。父と1人のおじがステーション・ワゴンにマットレスを載せ、祖母を連れて帰るためにサクラメントに向かいました。翌朝の早いうちに、戻ってきました。 祖母は完全には回復しませんでした。家でも椅子に座ることが多くなり、それまでのようにおしゃべりでもなくなりました。1965年11月12日、祖母は亡くなりました。訃報を聞いた時はとてもつらかったです。

ヘレンが眠る墓地 Santa-Clara-Catholic カリフォルニア

祖母の葬儀は朝でした。私は学校を休みました。その日は強い雨が降っていました。一族みんなが葬儀場に集まり、棺を閉じる前に最後の挨拶をしました。私は座りながら、親戚たちが悲しみにどう向き合うのか眺めていました。葬儀場から礼拝のため教会に行き、それから墓地に向かいました。 墓地に着いた時もいまだに強い雨が続いていたため、埋葬はできず、短く祈り、そして墓地を去りました。 午後は学校に行かなければいけませんでしたが、その気にはなれませんでした。机には座ったものの、先生はまったく見ていませんでした。ずっと祖母のことを考え、喪失感を覚えていました。

日本から受け継いだもの 祖母ヘレンの思い出=和田重次郎の子孫たち~その1~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年02月20日 木曜日
マイケル・オヘア

私 マイケル・オヘア(Michael O’Hare)は1953年に生まれ、12歳の時に祖母ヘレン(ヘレン・和田・シルベイラ)が亡くなりました。

Helen’s home

彼女(ヘレン)はカリフォルニア州サンノゼ(San Jose, California)のプラム・ストリート(Plum Street)に住んでいました。サンタ・クララ(Santa Clara)の我が家からは18kmで、よく訪ねたものでした…。

祖母の家には居住用に改装された地下室があり、そこに住んでいました。家の裏側には、地下室専用の玄関までありました。おばのロレインは上の母屋に住んでいました。 祖母の地下室はいつも暗かったのが思い出されます。家の裏側には、ロレインおばさんが住んでいた母屋に上がる階段もありました。裏にある階段を下って祖母の部屋に行き、別の裏の階段を上っておばの部屋に行っていました。玄関を使った記憶はありません。 裏庭にはパン作りのためのレンガ造りの窯がありました。

ヘレン・和田・シルベイラ 

60年代初め、祖母はサンタ・クララのボニータ・ストリート(Bonita Street)に引っ越しました。私たちの家から、たった3.2kmの場所です。 私たちは日曜日のほとんどを祖母の家で過ごしました。多くのおばやおじ、いとこも祖母の家にいました。大人たちが家の中で話をしたり食事の準備をしたりしている間、われわれ子どもたちは楽しく外で遊んでいました。 ボニータ・ストリートの新しい家の裏庭には、使われていない木製の鶏小屋がありました。私たち兄弟はアヒル捕獲を計画しており、鶏小屋をアヒルを飼うために使ってよいか尋ねたところ、祖母は許してくれました。ステーションワゴンに鶏小屋を積み込んで我が家に持って帰った時のことを、今でも思い出せます。

家が近くなったので、私たちきょうだいはよく自転車で祖母を訪ねました。祖母の家に行くまでに、山からサンタ・クララを流れ、サンフランシスコ湾の南端に注ぐ3本の小川がありました。それぞれの川に名前はあったのですが、私たちは「小川1、2、3」と呼んでいました。「小川3」を越えれば、祖母の家です。 「小川2」を自転車で越えることは許されていませんでしたが、祖母を訪ねるから「小川3」を自転車で越えてもよいか、と尋ねると、母はいつも許してくれました。 私たちが旅行に出かけると、祖母は3匹の犬に餌をやりに、毎日私たちの家に来てくれました。

祖母は私たちがいない間に掃除をしてくれていて、家に帰ると汚れひとつありませんでした。ベッドメイキングされていて、シーツや毛布、枕カバーはきれいに洗濯されていました。 祖母が私たちきょうだいの部屋を掃除する際、おもちゃなどがあるべき場所にしまわれていないと、捨てられてしまいました。旅行に行く前に全ての物をきちんとしまうことを、早くに学習しました。そうしないと、家に帰ったら、もうそこにはないのですから。 祖母は私たちの家に茶色い大きな自動車で来る前に、母に電話をしていました。祖母が来ることを伝えられたわれわれ子供たちは、はしゃいだものです。私たちの家は通りの端にあり、祖母はいつも反対側の端から来ました。

West End of Thompson Place From Graham Lane
East End of Thompson Place. O’Hare House 2 Stroy House on Left

私たちの家はトンプソン・プレイス(Thompson Place)にありました。私たちきょうだいは通りに立って、祖母の車が反対側の角を曲がってくるのを興奮しながら待ち構え、車が見えると、声を上げて飛び跳ねていました。家の前に車が停まると、ドアの周りに群がり、いっせいに祖母に抱き着こうとしました。 祖母が家に来てくれると、とても幸せでした。私たちは日々の出来事を、祖母に話しました。祖母は私たちにとても優しく、そして愛を持って接してくれました。

ある日、私たちの町で悲劇が起きました。一人暮らしの女性が強盗に遭い、放火までされたのです。消防車やパトカー、救急車がサイレンを響かせながらやってきて、近所じゅうの人が何が起きたのか見にきました。誰もが惨劇に衝撃を受けていました。

(続く)

マイケル・オヘア(Michael O’Hare)

日本から受け継いだもの~マイケル・オヘア=和田重次郎の子孫たち

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年01月01日 水曜日

私は日本から受け継いだものを母から学びました。

Michael O’Hare (right)

家族がミネソタの著者から情報を受け取り、和田重次郎が私の祖母の父だと教えてもらったのだと母はEメールで私に説明しました。私は驚き興奮し、本当だと良いなと思いましたが、少し疑わしく思っていました。 1970年代と1980年初めに、私は祖母の家族の歴史について調べていました。私は家族で上の世代の人たちの何人かに話を聞き、私たちの家族について教えてもらいましたが、誰も和田重次郎の話はしませんでした。

ヘレン・和田・シルベイラ (和田重次郎の娘)

私の祖母は1900年にサンフランシスコで生まれ、1906年の大地震の時にそこに住んでいました。 市役所にあるすべての出生、死亡、結婚届が地震とその後に起こった火事によって失われました。不幸なことに、家族に関する記録は存在しなかったのです。 もし祖母の出生証明書があったら、たくさんの情報が分かっただろうと思います。


母は、この情報を家族に教えてくれた著者のメールアドレスを私に送ってくれました。私は彼に文章で自己紹介し、その情報が本当だと証明する証拠があれば提供してもらえないか尋ねました。 彼は、祖母が重次郎を探して、アラスカにいる重次郎に書いた手紙のコピーを送ってくれました。

この話が本当だと私にとって決め手になったのは、彼が送ってくれた2枚の写真のコピーでした。この写真は、重次郎が撮って日本にいる彼の母セツに送った自分の娘の写真でした。 私は写真を見て、すぐに祖母だとわかりました。重次郎が撮った写真と同時期に撮られた祖母の写真を持っていたのですが、それらが同一人物だと疑いようもありませんでした。私は興奮し、自分が日本から受け継いだものをできるだけたくさん知りたいと思いました。 祖母は私が12歳の時に亡くなりましたが、祖母の記憶は鮮明にありました。今でも祖母が恋しいです。私は2回日本へ行ったことがありますが、できる限り頻繁に行き、もっと家族のことを知り、もっと親戚全員のことをよく知りたいと思っています。

<終わり>

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