Warning: call_user_func_array() expects parameter 1 to be a valid callback, class '' not found in /home/plateaux/wadajujiro.com/public_html/wp-includes/class-wp-hook.php on line 324
3月, 2020 - 和田重次郎顕彰会

文字サイズ:

和田重次郎に関する新しい論文が発表されました。アラスカを開拓した日系一世 和田重次郎 菅紀子さん

カテゴリ: お知らせ — 2020年03月24日 火曜日

和田重次郎に関する新しい論文が発表されました。

アラスカを開拓した日系一世和田重次郎 

―― 金鉱発見をめぐる3人の協働者の明暗を中心に――松山大学論集

892年に米国本土に単独密航した和田重次郎を取り上げる。近年
和田の出身地で顕彰活動が活発化し遺品や一部資料も収集されたことから移民
先へも協力が求められ,日本と北米双方に顕彰の拠点が形成され交流も盛んと
なった。まずこうした活動を確認する。次に和田の移民個人史を概観する。特
に和田はアラスカ,カナダの開拓に大きな功績をあげ頻繁に報道された。しか
しある時期から急にメディアへの露出が減り,以後不明な点を残したまま孤独
死を迎えている

松大論集31巻1号-菅

冒険家「和田重次郎」の歩み新聞に。顕彰碑の前で笑顔を見せる素鵞小学校5年生の子供たち

カテゴリ: イベント,お知らせ — 2020年03月15日 日曜日

学校紹介で素鵞小学校が取り上げられました。素鵞小学校の子どもたちは、地元の偉人和田重次郎を学び、記事にしたり、重次郎のミュージカルの歌を連合音楽会で発表したり、子孫との交流や顕彰碑周辺を清掃し花を植える活動をしていることなどが紹介されました

地元の偉人和田重次郎を誇りに思い、重次郎のように世の中の役に立つ人になりたいと顕彰碑の前で目を輝かせながら語る子供たち。

日本から受け継いだもの エドワード・フランシス・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その2~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年03月10日 火曜日

和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オーヘア姓(長男:エディー、次男:ハリー、三男:ドナルド、四男:レオナルド、長女:ヘレン、次女:アダメ、三女:エディス)2.ワイト姓(長男:ハラルド、次男:ロバート、長女:ロレイン、次女:ルシール、三女:メルビン)、3.メレディオス姓(長男:リチャード)、4.ピーター姓5.メドック姓など現在では100人以上の子孫を残しています。


←前ページ エドワード・フランシス・オヘア~その1~


アラゴン夫妻(フィデル、リンダ)。リンダはエディーの長子

第三子を妊娠したリンダのため、サプライズパーティーが計画されていました。しかし、サプライズのためにレストランに集まった人たちは、逆に驚かされる結果となりました。リンダは産気づき、レストランに現れることはなかったのです。

エディー 厨房にて

エディー(Eddie)おじさんは、サンノゼ(San Jose)のストーリー・ロード(Story Road)にあるトロピカーナ・ショッピングセンター(Tropicana Shopping Center)の食べ放題レストランで働いていました。家族でよく食べに行ったものです。おじさんはいつも厨房から私たちの席に来て、話をしました。私たちは食べ終わると、厨房に入り、おじさんに挨拶してから帰っていました。おじさんが料理長であり、厨房に入って挨拶するという、他のお客さんができないことをしていたことは、子供だった私にとって、特別で大切なものに感じられていました。

ディーと家族

歌うのが好きだったおじさんは、カントリーミュージックがお気に入りでした。おじさんは熱心な民主党員で、近所に政治パンフレットを配らせるため、リンダなど子供たちを民主党員にしました。非常に社交的な性格で、多くの友人・知人がいたエディーおじさんは、1969年12月7日に帰らぬ人となりました。

ヘレンとその家族が眠る墓地 Santa-Clara-Catholic カリフォルニア

父は訃報を聞いたあと、裏庭をずっと歩き回り、泣いていました。私も裏庭にいて、父のことを見つめていました。その姿は一生忘れられません。エディおじさんは母親のヘレンと同じ墓地、すぐ近くに埋葬されました。2016年現在、エディーおじさんの子孫は36人になっています。


←前ページ エドワード・フランシス・オヘア~その1~


マイケル・オヘア(Michael O’Hare)

和田重次郎の「子孫たちの物語」を達筆しているマイケル・オヘア氏、マイケルはヘレン・和田・シルベイラの3男ドナルドの息子

重次郎の子孫マイケル・オヘア

日本から受け継いだもの エドワード・フランシス・オヘア=和田重次郎の子孫たち~その1~

カテゴリ: お知らせ,子孫たちの物語 — 2020年03月05日 木曜日

和田重次郎の一人娘、ヘレン・和田・シルベイラは5回結婚しました。1.オーヘア姓2.ワイト姓3.メレディオス姓、4.ピーター姓5.メドック姓 現在では100人以上の子孫を残しています。



エディと両親(へレン和田とオヘア), Waterloo, Iowa,1918

エドワード(Edward)はハリー・マイケル=オヘア(Harry Michael O’Hare)、ヘレン・シルビア=ワダ(Helen Silveira Wada)夫妻にとって初めての子でした。 1918年2月2日にカリフォルニア州サンフランシスコ(San Francisco, California)で生まれた彼は、存命であれば今年102歳を迎えます。

エディー

エドワードが生まれてすぐ、一家はアイオワ州ウォータールー(Waterloo, Iowa)のアダムズ・ストリート(Adams Street)に引っ越しました。

祖父ハリー・マイケル・オヘアとその長男エディー アイオワ州ウォータールー(Waterloo, Iowa)のアダムズ・ストリート(Adams Street)

父は鉄道員として働いていました。中西部出身の父にとって、引っ越しは故郷への帰還でもありました。 1928年ごろ両親は離婚しました。7人の子を連れて、祖母は育ったカリフォルニア州サリナス(Salinas)の農場に戻った一方で、父はウォータールーに留まりました。のちに父はカリフォルニア州に移り、ヘレンや子供たちと連絡を取り続けました。

Christmas party at Eddie O'Hare house
1950年代クリスマスパーティ
Uncle-Eddie-and-Aunt-Delores

エドワードは成人し、ドロレス・アキスタペース(Dolores Acquistapace)と結婚しました。ドロレスは優しく、愛らしく、そして素晴らしい笑顔の持ち主でした。夫妻は、リンダ(Linda)、エドワード・ジュニア(Edward Jr.)、パトリック(Patrick)、モーリーン(Maureen)の4人の子供に恵まれました。残念ながら、パトリックはがんのため昨年(2018)この世を去りました。

サンノゼのエンパイアストリートにあった家

一家はサンノゼ(San Jose)のエンパイア・ストリート(Empire Street)に住んでいました。サンノゼの家を訪れた時の素晴らしい記憶が思い出されます。バンガロースタイルの家で、大きなベランダに続く階段もありました。

 

 

エディー 厨房にて

エディー(Eddie)おじさん(私たちはこう呼んでいました)は陸軍で調理人として働いたのち、シェフとなりました。サンノゼのセンター・ロード(Senter Road)にあったデル・モニコ・レストラン(Del Monico’s Restaurant)でおじさんが働いていた時の思い出を、おじさんの娘のリンダと語り合ったものです。


エドワード・フランシス・オヘア~その2~ →次へ


マイケル・オヘア(Michael O’Hare)

Copyright (c) 和田重次郎 顕彰会 All Rights Reserved.

error: Content is protected !!