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明治150年記念トークショー 女性たちが語る愛媛県出身の三人の偉人たち

カテゴリ: イベント,国内の新聞記事,顕彰会の活動 — 2018年11月16日 金曜日

10月13日(土)正午から1時間半にわたって「明治150年記念トークショー 女性たちが語る愛媛県出身の三人の偉人たち 水野広徳×重見周吉×和田重次郎」が坂の上の雲ミュージアムで開催されました。
会場には、80名を越す方々にご参加いただき、田中和彦和田重次郎顕彰会会長の軽妙な司会進行の下、パネリストのNHKワールドエグゼクティブプロデューサーの榎原美樹氏、みかん一座座長の戒田節子氏、NPO法人アイムまつやま理事長の菅 紀子氏の三人が、明治時代にグローバルな活躍をした、愛媛県出身の三人の偉人、水野広徳、重見周吉、和田重次郎について大いに語りました。
この模様は、南海放送ラジオで中継されたほか、愛媛CATVでは録画放送され、愛媛新聞、NHKでも大きく報じられました。

イタリアに訪問と国際シンポジウムの記事が愛媛新聞に掲載されました

カテゴリ: 国内の新聞記事,顕彰会の活動 — 2018年01月06日 土曜日

愛媛新聞に寄稿したコラム「世界に羽ばたく和田重次郎」をご紹介します。

キーパーソン《設立10年目を迎えた「和田重次郎顕彰会」》2016年6月5日 愛媛新聞

カテゴリ: 国内の新聞記事,新聞記事 — 2016年06月06日 月曜日

2016年6月5日(日)の愛媛新聞「キーパーソン」のコーナーに、和田重次郎顕彰会事務局長 上岡幹夫のインタビュー記事が掲載されました。ぜひご一読ください。

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ラストステージ みかん一座ミュージカル「オーロラに駆けるサムライ~和田重次郎物語~」完結!

カテゴリ: イベント,お知らせ,国内の新聞記事,顕彰会の活動 — 2015年12月15日 火曜日

アラスカ公演を成功させ、無事帰国し、まだ疲れの残る中、お世話になった方々にアラスカ公演の模様を報告することを目的に、5月23日・24日に松山市民会館中ホールにて、「みかん一座ミュージカル オーロラに駆けるサムライ~和田重次郎物語~ラストステージ」を開催しました。
冒頭にアラスカ公演の模様を写したDVDを放映し、いよいよアラスカバージョンのミュージカルがスタート。
最後は、「愛媛の歌」と「アラスカ州歌」をアラスカ公演の時に歌ったシーンを写しながら、市民会館に来てくださった観客の皆さんと一緒になって歌いました。
まさにアラスカと愛媛がつながった瞬間でした。

三公演で延べ2,000名もの方に来場いただき、みかん一座ミュージカルのラスト公演は大成功のうちに幕を閉じました。

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和田重次郎の生涯を描いた、みかん一座ミュージカル「オーロラに駆けるサムライ~和田重次郎物語~」は、今回の「ありがとう公演」をもってすべて完結しました。
振り返りますと、2011年12月11日松山市民会館中ホールで二公演。同年12月24日の内子座で公演。2013年1月13日・14日には坊っちゃん劇場で三公演。
そして、2015年5月1日にアラスカ・アンカレッジにて公演。
今回のありがとう公演で三公演と、延べ10公演開催し、いずれの公演も満員で総計7,400名もの方々にご来場いただき大成功のうちに終えることができました。
これも戒田節子座長をはじめ、みかん一座の劇団員やスタッフの皆様。
資金面で支えてくださった、加戸守行前愛媛県知事を団長とする日米友好アラスカ公演応援団の皆様。
そして、何といっても舞台を観るために駆けつけてくださった多くの観客の皆様のおかげです。
本当にありがとうございました。

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和田重次郎はほとんど知られていませんでしたが、みかん一座ミュージカルのおかげて、愛媛のみならず、日本全国さらにはアラスカ、アメリカと広く知られるようになりました。

このミュージカルの成功を大きな糧として、和田重次郎顕彰会は、顕彰活動をさらに発展させていきます。

漫画「オーロラに駆けるサムライ~和田重次郎物語~」英語版 贈呈式

カテゴリ: イベント,お知らせ,国内の新聞記事,顕彰会の活動 — 2014年08月12日 火曜日

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河原学園デザインアート専門学校では、和田重次郎の生涯を描いた漫画「オーロラに駆けるサムライ~和田重次郎物語~」を2011年に製作しました。顕彰会に、単行本として贈呈していただき、市内小中学校に配布しました。

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そして、来年5月に和田重次郎のミュージカルをアラスカで公演をすることから、漫画でもアラスカ開拓者としての和田重次郎の偉業をアラスカの人たちに知ってもらいたいとの思いで、英語版を作成。6月5日に寄贈していただきました。

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贈呈式は、和田重次郎の顕彰碑の前で執り行われ、多くのマスコミにも報道されました。松山は連日の大雨でしたが、贈呈式の間だけは晴れ、無事終えることができました。

顕彰会では、贈呈された英語版を今度はアラスカの小中学生等に配布する予定です。

「谷 有二氏を偲ぶ会」が終わりました

カテゴリ: お知らせ,国内の新聞記事,新聞記事,顕彰会の活動 — 2014年05月05日 月曜日

4月29日松山市総合コミュニティセンター・コスモシアターにて、和田重次郎の生涯を描いた「オーロラに駆けるサムライ」の著者である愛媛県宇和島市出身の作家谷 有二氏の逝去に哀悼と感謝の意を表するため、和田重次郎顕彰会主催の「谷 有二氏を偲ぶ会」を開催しました。

DSC_1967会では、谷先生と生前親交のあった南海放送田中和彦常務や和田重次郎の子孫である内子町在住の和田利百氏。また、谷先生の宇和島南高校時代の同窓生たちが登壇し、谷先生に送る言葉として思い出をお話しいただきました。
また、みかん一座の和田重次郎ミュージカルは、谷 先生の「オーロラに駆けるサムライ」をベースとしていることから、感謝の意を込めて、みかん一座がミュージカルの挿入歌を歌いました。
そして、最後に谷先生の奥さまの本子さまと息子さんである真人さまによる挨拶があり、閉会となりました。
厳粛な中にも谷先生の温かい人柄そのままの人を思いやることの大切さを実感できたとても温かいいいイベントでした。

偲ぶ会の後は、田中和彦氏が制作したラジオドラマ「オーロラになったサムライ」をベースにしたプラネタリウム番組を投影しましたが、120名ほどの参加者は最後までほとんど帰らず、終わった後も名残惜しく余韻に浸っていました。
きっと谷先生も喜んでおられることでしょう。

img021谷先生本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。天国でゆっくりお休みください。

日本人マッシャー和田重次郎。犬達と共にハーシャル島までの5千マイルの旅へ

カテゴリ: 新聞記事,海外の新聞記事 — 2007年10月17日 水曜日

出典:THE SEATTLE POST-INTELLIGENCER, SUNDAY, JULY 5, 1908

6月1日 ドーソン発(特電) アラスカの偉大なる長距離マッシャー、アラスカ50マイル・インドアレーシング・チャンピオンシップの記録保持者でもある和田重次郎が、ドーソンからハーシャル島近くのファース川までの5,000マイルの旅に挑んでいる。和田はドーソンからセント・マイケルまで蒸気船とレースする。

彼は小さなボートでセント・マイケルを経て、ノームを目指し、そこから捕鯨船でファース川に向かう。

この偉大なるマッシャーは、昨年冬にハーシャル及びファース川までの1,600マイルを犬橇に乗って、たった一人で達成している。旅の途中で食料不足に陥り、自分のズボンをクジラの油に浸し犬達に与えたという。さらに靴下まで犠牲にし、最終的にドーソンに到着したときには、肌を隠す程度の下着姿だったという。

重次郎は日本の南部に生まれたが、幼少時代に実家から離れ、世界の国々を巡った。数年前に北極地域にたどり着き、以降は彼の拠点となっている。体重136ポンド、身長5フィート1インチ。栗色のハスラーである。

今回の旅の所持品は、少量の食料、ひとつかみの衣服、フライパン、缶詰一つ、ブリキの皿、ナイフ、5匹の犬、そして一枚の毛布だ。この他にハーシャル島の政府関係者に宛てた文書を預かっている。ハーシャルで公文書を受け付ける役割に軍曹のフィッシュジェラルド氏を任命するという内容だ。ハーシャルに入れば鉱業登録局は数百マイルも離れてしまうので、道中の賦課作業を登録するには、再びドーソンに戻らなくてはならない。通常、監督者の任命はオタワから発行されるが、和田が早急に出発しなければならないので、道中の作業に関してはノースウェスト騎馬警察より先にハーシャルで申告できるよう取り決められた。 (続きを読む…)

Wada Tells of the Country to the West

カテゴリ: 新聞記事,海外の新聞記事

出典:Amanda Graham’s Web Page and Circumpolar Info Centre.

He now talks of dredges for the new Alaskan placer fields Back to Fairbanks City Days recalled when intrepid brown fellow hit Dawson

Dawson Daily News, 8 July 1912

Jujiro Wada, the mushing Jap who brought the first news of the Fairbanks strike to Dawson, and has made numerous other trips in the North, recently blew into Fairbanks again with a new story about the placer country of Western Alaska, the Times says:

Ten years in a placer camp is a long, long time, more than five or ten times that number of years in an older community, where things move more slowly and the population does not come and go with such kaleidoscopic changes. Thus, the return of Jujiro Wada to Fairbanks might be likened almost to the return of one of the Pilgrim fathers to Plymouth, in point of the changes that have taken place in Fairbanks and the generations (placer camp generations) that have come and gone since he first visited the section and then mushed overland to Dawson ten years ago, with the news that caused the Fairbanks stampede. True, when the Dawsonites moved over the winter trail and viewed Felix Pedro’s strike the majority of them were in favor of hanging Wada, but the hardy little brown musher has since been vindicated. His estimate of the camp was the correct one, and those of that first stampede who remained have mostly prospered. Thus is always gives him much satisfaction to drop back to Fairbanks and view the progress.

Wada was in Fairbanks a few years ago during the revival of Marathon racing, and figured in several of the big contests, but he left shortly after the great Fourth of July Marathon of 1909 when, before the largest crowd ever gathered at Fairbanks, Jerry Sullivan, of Nome, with his musher’s trot, came home with the money. Since that date until Saturday night Wada has found time to cover considerable stretches of Northland, besides spending almost a year in the States.

One of Wada’s Alaskan stunts since leaving Fairbanks was the blazing of the overland trail to the Iditarod from Seward. He was hired to do this by the town of Seward and returning, reported that the route was feasible and that the Iditarod would make a good small camp. The road commission has since followed Wada’s route. The next year found Wada down in the States, where almost the first person he met was a now wealthy ex-senator from Texas, whom Wada had known twenty years before up near Point Barrow, just after the Texan had graduated from college. The two held the big talkfest and then they took in the East together, not forgetting the Great White Way at New York. After almost a year in the States under the direction of his old Point Barrow friend, Wada hied himself North once more, backed by the man from Texas whom he now represents and whom he is to meet at New Orleans when he gets outside on his present trip.

The first point visited last year after leaving San Francisco was Good News Bay, near the mouth of the Kuskokwim. Wada remained there until last November, when he heard of the Aniak river strike, when he moved up river and investigated that country. Still later he stampeded back down river to the Tulasak river and got in on the ground along Bear creek.

Returning to the Iditarod from the Tulasak, Wada took Jack Baird, formerly of Fairbanks, with him and, moving a prospecting drill, the two crossed over to the Kuskokwim in the spring and proceeded to test some of the ground on Bear creek. The indications were very favourable, hence Wada’s trip out to New Orleans to lay his findings before his backer.

To judge by the bottle of coarse gold that Wada carries with him, taken from Bear creek, some of the nuggets being worth $10, it is evident that the prospectors secured more than indications.

Bear creek and the Tulasak are not regions unknown here, for several local people are interested in the ground which was staked four years ago. Most of the staking at that time was by power of attorney and after blanketing Bear from end to end, the stakers left the country, leaving the creek tied up so that later comers could not get in, and thus it stood until this past winter, when it was restaked.

The restaking of Bear creek followed the movement of Wada from Aniak back down the Kuskokwim, for at theat time the Buhro strike on the Aniak appeared to be a frost and the miners were only too glad of an excuse to move on.

Were the Tulasak country a little different it doubtless would long since have taken its place among the producers that are on everybody’s tongue, but the ground throughout the regions is wet. True, there are five men in the camp on Bear that have each season taken out a grubstake, their returns being about $10 per day, but they have not been situated in a manner suitable for handling the water.

From the tests made by Baird and Wada the little brown musher is well satisfied that Bear creek will soon be famous as a dredging camp, for there is plenty of gold on bedrock. In fact, the Kuskokwim Commercial company will be one of the outfies that will put a dredge on Bear creek this summer. Wada does not know who their backers are.

If the grade were steeper Bear might be worked by giants, but under present conditions hydraulic methods cannot be used.

Referring to the Aniak river, which empties into the Kuskokwim about 75 miles above Tulasak, and which heads back against the same mountain as Bear creek, Wada predicts that the men on Marble creek will have a good little camp.

19世紀末活躍の冒険家 重次郎の偉業後世へ 松山 石手川緑地 町内会が顕彰碑建立(愛媛新聞ONLINE)

カテゴリ: 国内の新聞記事,新聞記事 — 2007年09月07日 金曜日

出典:愛媛新聞ONLINE

和田重次郎 顕彰碑建立一九世紀末、アラスカやカナダを探検した愛媛出身の冒険家・和田重次郎(一八七五—一九三七年)の活躍を後世に伝えようと、幼少期を過ごした松山市日の出町の連合町内会(八倉重貴会長)はこのほど、地元の石手川緑地に顕彰碑を建立。三日、除幕式があり、町内会関係者や住民ら約百人が偉業をしのんだ。 (続きを読む…)

和田重次郎の顕彰碑:「探検家」「探検王」日の出町の誇り、除幕 /愛媛(毎日インタラクティブ)

カテゴリ: 国内の新聞記事,新聞記事 — 2007年09月04日 火曜日

出典:毎日インタラクティブ

◇松山・歴史愛好家ら足跡を伝承

明治時代に活躍した松山出身の探検家、和田重次郎(1875〜1937)の顕彰碑などがゆかりのある松山市日の出町の石手川河川敷に建立され、3日、除幕された。地元の歴史愛好家らで作る「和田重次郎顕彰会」が市民に和田の足跡を伝えようと取り組んできた。 (続きを読む…)

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